福岡少女軟禁事件


福岡市博多区の母親(40)が二女(18)を小中学校に通わせず、11年以上自宅に閉じ込めていた問題で、二女は幼児期に一時保育所に通っていたことが分かった。保育生活になじめず中途退所。二女への傷害容疑で母親を逮捕した博多署は、退所を契機に自宅で養育しようとしたとみている。「(障害による)発達の遅れが恥ずかしかった」と母親が挙げた理由は、行政や教育現場、地域社会にさまざまな課題を投げかけ、子供の障害を案じる親の複雑な感情も浮かび上がった。
毎日新聞) - 12月7日


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私は地元の学校に行っていないため近所に友人がいない。友人と会うにはいろいろと手配しなければ実現できないから、ちょっと会おうかということは出来ない。働いていて社会とつながりが出来ても地域とのつながりはないに等しい。障害を抱えた多くの障害者は同じような思いをしているのではないだろうか。
肢体不自由児に関してはようやくこの数年で地元の「普通」学校への登校が可能になってきているようだがそれでも困難が伴う。知的障害児や発達障害児についての支援もお世辞にも整っているとは言えない。
日本ではまだまだ障害を持つ人の世話は親や兄弟など身内がみるものという意識が強く、他人に迷惑をかけてまで人様に頼めないという人もたくさんいる。私の両親もそのように思っている。またそれをフォローできるだけの制度が整っていなかったり、実態に即してないために本人の希望に叶う支援が受けられない、地域から孤立しているなど、障害を持つ人を取り巻く現状はなかなか改善されていない。そういう現状がこのような事件を引き起こしたといっても過言ではなかろう。
米国ではPC(politically correct:政治的に正しいと認められた信条)の立場から障害者をchallengedやphisical challengedなどと呼んでいるが、障害は個性であり「障害」ではない。ある人の話を載せた新聞記事によるとアメリカを旅行したときに障害があることを忘れていたそうだ。日本では障害は「個性」ではなく依然として「障害」であり、隠しておかなければならないものだったり、人に迷惑をかけるものだったりする。
この母親は責められるべきである。発達障害を恥ずかしいなどとわが子を閉じ込めるのは愛情の屈折である。しかし、地域や社会が障害のある人たちを「区別」している限り、同様の事件が起きないとも限らない。