「頭がいい」とは何なのか


夕べ、フジテレビで「学問の秋スペシャル たけしの日本教育白書〜楽しくマジメに語るこの国の大切な未来〜」なんていう番組をやっていた。始めから終わりまでじっくりと見ていたわけではないけれど、何となく焦点の定まらない番組になってしまっていたかなと率直に思う。「頭がいい」って何なのか、ということを多角的にとらえることをテーマとしていたのかもしれない。


「頭がいい」とは何なのか、それは一概に「これです」というものではなくて、文化や環境によっていろいろな「頭の良さ」があると思う。例えばIQが高いこともそのひとつだろうし、記憶力がいいとか、学校での成績がいいとか、あるいは成績は悪かったけれど鋭い分析力で成功したなどが考えられるし、ある文化ではより効率よく獲物を取れる人が頭が良いとされているかもしれない。暗記することが素晴らしい能力だとする文化もあれば、暗記しなくても膨大な資料から検索できる力こそが必要な能力だという文化もある。
私は、学校の勉強や資格試験を受けるための勉強は、勉強のテクニックを知っているかどうかである程度決まるので成績のよしあしや学歴では頭の良さは計れないと思う。


学校の勉強を非難する人がいる。三角関数を知って何になるのか、歴史を暗記して役に立つのか。はっきり言ってそれらは特殊な職業に就かない限り直接には役に立たないかもしれない、何故なら学校で習うことは言ってみれば混じりけのない純粋で閉じた問題だから。社会にはそんな問題はない。自然だって経済だって文化だってひとつの分野から成り立ってるわけではない。学校で習ったことを総合して捉え考え運用できる人が頭の良い人ではないだろうか。
純粋な問題ならテクニックで解ける、だから複雑な問題を分解し解いてから各分野をリンクさせる。この分解力とリンク力が大事なのだと思う。(「声に出して読みたい日本語 」で有名な齋藤 孝さんは番組中、これを「文脈力」と表現していた)
そのための資質として重要なのは「自分は何も知らない」ということを知っていて、知ることを止めないことなのだろうと思う。いくらIQテストや学校の成績や暗記力がいい人でもそこで満足していたら能力は止まる。だから学歴がなくたって常に何かを知ろうとする人は頭が良くなる。


頭脳パン」は確かにおいしいが、頭脳パンを食べたって頭は良くならない。勉強を辛いことだ・楽しくないことだという思い込みを持っていても脳は進化しない。勉強とは何かを知ること、そしてそれを楽しみ、生活の一部としていければあなたの脳は進化する。(かもね ;p)